あの日あの時
3年前の今日、PiOは満室でした。
大展示ホール+A・B会議室では6,000人規模、小展示ホールも5,000人規模の展示会が開催されていました。
コンベンションホール梅と配膳室では約200人の懇談会の準備中で、鶯では企業の集会が行われている最中でした。
特別会議室では就活生のためのセミナーが、和室では社員の集いが、6階会議室ではセミナーや会議が、それぞれ開かれていました。
あの地震が起きた時、防災センターは、安全を確認しながら屋外の大展示前広場に一時避難するよう放送を入れ、来館者を誘導しました。利用者の方は、動揺しながらも冷静に行動され、すべての方がご無事であったことが何よりも私たちをほっとさせました。
次に、中央監視室と施設管理担当職員が館内外を点検し、予約センターでは備品の動作状況を調べ、目視範囲ではありますが異状がないことを確認しました。
余震が続いたこともあり、ご利用者の中には早目に切り上げたり、夜の催事をキャンセルしたりされる方もいらっしゃいましたが、その時はまだ東北地方で何が起きようとしているか知る由もなく、引き続きご利用される方が少なくありませんでした。
そして。
時間が経過するとともに、事の重大さを徐々に知らされ、また交通網の遮断は深刻な状況であることが伝わり始めました。
遠方からお越しの来館者がお帰りになれないことはもはや明らかで、PiOを大急ぎで簡易宿泊所にしなければなりません。
催事を早めに切り上げたご利用者の快諾をいただき、清掃係はできる限り多くの方が泊まれるよう、コンベンションホールの椅子や机を撤去しました。備品担当は、TVやラジオといった急ごしらえの情報提供場所を作りました。
当時PiOは帰宅困難者施設に指定されていませんでしたが、最寄りの施設があふれることが予想されたため、臨時の帰宅困難者施設にするという要請が来ました。
当然、コンベンションホールだけでは足りません。大展示ホールは予定どおり開催されるとのことでしたので、閉会後なるべく早い撤収をお願いし、小展示ホールは会期途中でしたが、主催者のご協力で空いている床面を使わせていただけることになりました。
しかし、目の前の国道は1時間経っても数メートルも動くことなく、大展示ホールの搬出は思うように進みません。刻々と時間だけが過ぎていきます。
事情をご理解いただいた主催者の方が、とりあえずホールの外にすべてを出してくださり、しかも展示で使ったカーペットなどの資材を残していただいたので、何とかぎりぎり簡易宿泊所としてお迎えする準備が間に合いました。
それから翌朝まで様々なことがありました。
「これ配ってあげて」と、たくさんの使い捨てカイロを持ってきてくださったご近所の方、「ラジオでPiOが帰宅困難者施設になったって聞いたから」と、厳寒の中歩いて、我々職員を手伝いに来てくださった利用者の方、お名前も伺えませんでしたが、ありがとうございました。
今日1日、PiOは半旗を掲げています。((ぴおりん)